渡部幹の「ニュースで心理学」第5回 包括的成長に必要な柔軟性を推奨する インクルージョン・マネージメント推進の急務

Updated: Jul 7

 各個人の存在意義が認められ、それぞれの才能・能力を惜しみなく発揮できる環境作りの必要性が問われる今、組織の徹底的な意識改革が急務だ。柔軟性に富んだ社会基盤は、確固たる自己肯定感を礎とし、これからの時代を担う人材育成のための試金石となり得るだろう。社会心理学者の渡部幹氏が、現代を生き抜く人たちへ提言する。



 先日、筆者の知り合いの日本人家族のお子さんの話を伺った。マレーシア在住のご家族

だが、お子さんは日本人学校に興味があって、通うことになった。その子の家から学校ま

では結構遠いため、朝7時前に朝食をとって学校に行くのだが、育ち盛りのその子にとっ

ては10時過ぎにはお腹が空いて、頭がふらふらしてしまい、授業に集中できなくなって

しまったそうだ。


 そこで、ご両親は「昼食前に軽い栄養補給のため、スナックを摂らせてほしい」と学校

にお願いしたという。そして、それは2つの理由によって拒否されてしまった。その理由

は、


  1.  いままでそんな要望を聞いたことがない

  2.  それを許可すると、お子さんが日本に戻った時に(それがない日本の制度のなかで)苦労する

というものだった。


 筆者は、この話を聞いて、日本の社会でダイバーシティ(多様性)・マネジメントが根

付かない理由がそこにあるように感じた。


 ダイバーシティ・マネジメントとは、性別、人種、教育環境、文化、宗教などが違った

様々な人々が一緒に働く場をいかに作っていくかという、経営学の一分野である。最近よ

く耳にする単語ではあるが、今ではインクルージョン(包括、包含、一体化)という言い

方に変化してきている。つまり「違い」そのものよりも「違いを取り込んでいく」ことを

強調するようになっている。ここからは、ダイバーシティではなく、インクルージョン・

マネジメントと呼ぶことにする。


高い生産性を生み出す「自己肯定感」あふれる環境作りを


 インクルージョン・マネジメントは、各個人の違いを認め合い、その違いに応じて、柔

軟な制度を作り、結果として経営の生産性や創造性を上げることを目的とする。ただ、現

時点でそれ以上に、倫理的配慮という理由が大きい。


 インクルージョン・マネジメントの実践において、企業に実質的な効果を与えているか

どうかの研究が進んでいるが、ひとつ明らかになっているのは、経営側の実践よりも、そ

こで働く人々がインクルージョンを実感しているかが重要だという点である。つまり、従

業員が「この職場で、自分は違う人々からも受け入れられている」と実感している企業

は、高いパフォーマンスを示していることがわかってきているのだ。


 ただ、ここには注意すべき点がある。従業員がインクルージョンを実感するために、経

営側はインクルージョンプログラムを十分に組織に浸透させなくてはならない。そのため

には時間も費用も掛かるし、その間企業にとってのポジティブな効果は出ないかもしれな

い。つまり、経営側にとっては、一定期間の「我慢の時」が必要となる。


 その我慢の時を支えるのは、経営陣の確固たるポリシーであり、理念である。異なる背

景をもった社員が生き生きと働ける場を作る、という理念がなければ、長期的な展望は望

めない。目先のコストばかりを気にしたり、既存制度にしがみつくような経営者にはでき

ないプログラムだ。


 こういった研究は欧米、特に北米を中心に行われているが、日本は、先進国の中でイン

クルージョンが最も遅れている国の一つである。もともと、言語や宗教、人種の違いが少

なく、その同質性を経営の武器として、高度成長を成し遂げてきた日本だが、この経営ス

タイルは、このトレンドに完全に乗り遅れた。先日のニュースで、トヨタのエグゼクティ

ブに女性が一人もいないと指摘されていたが、それを象徴してはいまいか。


制度的硬直性が生む潜在的な脅威


 冒頭の例は、日本のインクルージョン意識の低さを示しているように感じられる。この

子たちがリクエストしているのは、高い学習パフォーマンスを得るために昼食前に栄養補

給できる機会だ。これは学校が目指すものと一致している。にもかかわらず、それができ

ないのは制度的な硬直である。


 筆者が学生の頃は、こっそり食べ物を持ってきては、休み時間にいわゆる「早弁」をし

て、問題を解決していた。硬直した制度を変えるよりも、こっそりルールを破る方が簡単

だからだ。そして先生たちも、それを黙認していた。


 だが、コンプライアンスが厳しくなっている昨今、そういった暗黙のルール破りも問題

視されるようになっている。それが故に、冒頭の例ではご両親が、正面切って制度改革

(というほど大げさなものではないかもしれないが)を提唱した。


 その提案について、冒頭に挙げた、理由にもならないような理由で拒否するような「文

化的偏狭さ」はインクルージョン推進にとって大きな妨げになると、筆者には思える。


 日本における文化的偏狭を特に感じるのは、「食」についてである。マレーシアに住ん

でいる身としてはハラール食について馴染みは深い。だが、よくマレーシア人からは、日

本旅行では食事は美味しいけれど、気を遣う、という言葉をよく聞く。


 筆者自身もそうだったが、日本に住んでいるとハラール食がどんなものか、そしてどう

いう理由でそうなっているかについて、ほとんど知識を得られない。


 少し前に、ある中小企業の経営者が、自分の工場に国際研修に来ているイスラム教徒の

若い研修生を騙して豚骨ラーメンを食べさせ、食べている途中に豚を使っていることを暴

露した時の、彼らの驚いた顔をツイッターに載せて、大炎上した出来事があった。ここま

でくると、文化的偏狭と無知の上に、悪意まで感じられてしまう。


 その他にも、アレルギー、特に食物アレルギーに対する無知と偏狭も日本では大きいと

感じる。


 実はこれらはすべて、ダイバーシティのカテゴリに入るものだ。性別、宗教のみなら

ず、食物アレルギーや性的マイノリティなど一見わからないけれど「人とは違っている」

部分は、「深いダイバーシティ」と呼ばれている。欧米では、それらもインクルージョ

ン・マネジメントの対象となっているが、日本では特にこの深いダイバーシティについて

の理解がまだなされていないように思う。


「恥の文化」の功罪 文化的寛容性の積極的な推進を


 このような文化的偏狭さは、日本人の「恥の文化」から来ていると筆者は考える。「恥

の文化」とは米国人学者のルース・ベネディクトが西洋の「罪の文化」の対概念として提

唱した言葉で、文字通り行動の規範を恥に照らし合わせることだ。つまり、何か行動をす

べきかどうか判断する際、「周りの人はどう思うだろう。悪いように思わないだろうか」

という考えを基準にすることだ。


 これが行き過ぎると、常に他人の目を気にしてビクビクして過ごすことになる。人に迷

惑をかけないように、が行き過ぎて、「人と違わないように」が基準になってしまう。

人に迷惑をかけないという規範は、日本が誇るべきものだとは思うが、それが行き過ぎ

ると多様性を殺す文化的偏狭となってしまう。私たち日本人はこの点に気を付けて生きる

べきだと思う。そして幸いにもマレーシアは、日本ほど「恥」を気にして生きる必要もな

い文化だと感じる。だからこそ、マレーシア在住の私たちは、日本人として文化的偏狭と

は反対の、文化的寛容さを率先して身に着けなくてはいけないのではないだろうか。



渡部幹(わたべ もとき)

モナッシュ大学マレーシア校、スクールオブビジネス 准教授。同校ニューロビジネス研究所所長。UCLA社会学研究科Ph. Dコース修了。社会学博士。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。実験ゲームや進化シミュレーションを用いて制度・文化の生成に関する研究を行っている。主な著書に『不機嫌な職場』(共著・講談社新書)、『つながれない社会』(共著・ナカニシヤ出版)

© スダマカンマレーシア情報. For Your Media, Corp. All rights reserved.