第10回 コロナ禍を機に「強い自己」の確立を

Updated: Feb 18

 近年、鮮明になりつつある「村社会」のオンライン化。知り合いの多さや所属しているグループの有無、数の多さに左右されることなく、是非、ゆるぎない自己の確立を実現してほしい。社会心理学者の渡部幹氏が、コロナ禍は「私は何者か」を自らに問い、他人の評価と切り離した「自分の中にある本当の自己」を発見する絶好の機会とエールを送る。

紙とペンを用意して、これから3分間の間に、


私は              である。


という文章を20個書いてみてほしい。


 実はこれは「20ステートメントテスト」と呼ばれるもので、文化心理学という分野の実験である。


 文化心理学は1990年台に台頭してきた心理学の一分野で、一見ユニバーサル(普遍的)に見える心理学の理論は、実は西洋文化という前提があり、それがない東洋文化(日本など)では、必ずしも正しくない、という見方を持つものだ。


 このテストを日本とアメリカで行うと面白い違いが出てくる。


 日本人の場合、典型的なものは「私は○○大学の学生です」や「私は先生です」、「私は○○社の社員です」といった、「所属」「グループへの関係性」といった記述だ。


 一方のアメリカ人は「私はスマートだ」や「私は情熱的だ」、「私はフェアだ」といった、個人の性格や属性といった記述が典型的である。


 上記にはもちろん個人差があるし、20個も書いていくと、どちらの国でも両方の記述がでてくるのだが、冒頭のように時間を限った場合、最初の5~6個のステートメントで上記のような差がでてくることが多い。


 文化心理学の第一人者である北山忍氏(ミシガン大学教授)によると、そもそも東洋と西洋では自己観が異なっているという。ここでいう東洋とは主に東アジア(日本、韓国、中国)を指し、西洋は北アメリカおよび西側欧州を指す。


 東洋の自己観は「相互依存的自己」と呼ばれる。自分を他人との関係性によって定義するのだ。つまり会社や大学のメンバーであることがアイディンティティになる。その他、「自分は有名人の息子だ」、「○○の友人だ」、「○○の知り合いだ」ということまで、自己の一部となり得る。


他者目線の自己像をデリート(削除)することの重要性


 一方で西洋の自己観は「相互独立的自己」と呼ばれる。自分は自分自身によって定義される。「自分は○○な人間である」という思い込みや信念で自分を定義するのだ。


 この自己観の違いは、さまざまな文化的な違いを生み出すといわれている。たとえば、京都大学の内田由紀子氏らが行った研究では、オリンピックでメダルを取った日本人選手とアメリカ人選手のスピーチの違いを指摘している。


 日本人選手のスピーチは「多くの方々のおかげでメダルを獲ることができました!」といった類のものが多い。そして「お世話になったコーチ、監督、同僚、○○さん」といった「自分の周りの重要な他者」への感謝がすぐに出てくる。文化心理学では、これは「自分というものが、他者との関係で初めて成り立っているために起こることだとしている。


 一方でアメリカ人選手の典型的なスピーチは「私はやったよ!(I made it!)」という「自分自身のアピール」から入ることが多い。その上でお世話になった人への感謝を述べが、それが出てくるタイミングは日本選手よりもはるかに遅い。これは「自分」が他者か独立した個人である、という自己観によってもたらされるもの、と文化心理学では説明する。


 このことは、そして日本的村社会ができてしまう原因にもなる。自分を他者によって定義してしまう日本人は、「周りからどう思われるか」、「自分の所属するグループがどう思われるか」を常に気にするようになる。それが自尊心と直結してしまうからだ。ママ友のカースト制度と呼ばれるようなものもここからきている。一流企業の役員の奥さんが、そういう制度の中で「一番偉いリーダーになる」のは、その奥さん個人の性格や資質から来ているわけではない。世間から賞賛される企業や年収の高い企業に勤める夫がいる、その「グループ」に属しているからだ。


 だがアメリカでは、むしろその奥さんがどんな人物かによって、リーダーになるか否かが決まることが多い。


 そして文化心理の観点から言えば、日本人は自分自身を他者と切り離して評価するのが苦手である。他人が自分のことをこういっている、ああいっている、というのが自己評価や自尊心に直結する。SNSで「いいね」をたくさんもらえれば自尊心があがり、炎上すれば自尊心はぼろぼろになる。


 かつて、日本が本当に村社会だったころは、日本人が気にする「世間」はとても狭かった。村の中の自分の評判だけに気をつけていればよかった。昭和の高度成長期で、それは少し広がった。会社の中での評判、社宅での評判、子供の通う学校の父兄間での評判などを気にしなくてはならなくなり、自己を保つことが少しずつ難しくなっていった。


 そしていま、インターネットが普及した時代には、それらに加えて、SNSやゲームでのコミュニティ、その他のバーチャルなコミュニティまでもが、自尊心に関わるものになって来ている。


 いま日本人は、周りに左右されない、より強い独立的自己を持たなくてはならない時なの

だと、筆者は考えている。そしてマレーシアという異国に暮らすと、そのヒントがいくつか

見えてくる。


今こそ、自らの信念による自己の確立を

 ひとつは宗教だ。日本では伝統的な神道と仏教以外の信者はうさんくさい目で見られるこ

とが多いが、マレーシアでは宗教は多種多様で、かつ生活にもっと根付いている。どの宗教

でも、神を信じ、神の道に背くことをしてはならない、と教えられる。


 つまり自分以外の他者ではなく、神の教えが自己観につながる。独立的自己をいきなり持つのは難しいが、神の教えを基準にすることで、少なくとも他者に振り回されることは少なくなるはずだ。実は世界では日本人が思う以上に、宗教の役割は日常や人生において大きい。マレーシアでは、その大きさを体感する機会が多くある。


 もうひとつは、自己を強くする方法である。SNSなどをやめる。そして他人と関わりを持たない孤立した状況で、「自分は何者か」を考えるのだ。これは最近流行の言葉で言えば、マインドフルネスとか、瞑想と呼ばれるものだ。そしてこれは、実はグーグルやフェイスブックなどの会社が社員研修にも取り入れている。独立自己の国、アメリカでさえ、SNSやフェイスブック上での評判によって振り回され、自分を見失うものが増えているためだ。


 コロナの収束が見えない今、多くの人々が、自分はどう生きるべきかを自問自答している。その中で、他人に振り回される自己しか持てない人は、すぐに道を見失う危険がある。この時代、必要なのは、他人の評価と切り離された「自分の中にある本当の自己」を発見し、それを確固たる「強い自己」にすることなのだと思う。そうすれば、この激動の時代に、何をするべきかの指針が見えてくるのではないかと思っている。


渡部幹(わたべ もとき)

モナッシュ大学マレーシア校、スクールオブビジネス 准教授。同校ニューロビジネス研究所所長。UCLA社会学研究科Ph. Dコース修了。社会学博士。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。実験ゲームや進化シミュレーションを用いて制度・文化の生成に関する研究を行っている。主な著書に『不機嫌な職場』(共著・講談社新書)、『つながれない社会』(共著・ナカニシヤ出版)