ミステリアスな逸話を擁する古都、マラッカ ダイバーシティ先進国マレーシアの起源はここにあり

Updated: Mar 1


 「マラッカを訪れずして、マレーシアを語るにあらず(Visit Melaka Means Visit Malaysia)」、マレーシア観光省によるキャッチフレーズだ。マレーシアの歴史は、マラッカ王国の建国から始まるとされることによる。


 クアラルンプールからおよそ車で2時間の距離にあるマラッカは、大航海時代の重要港湾都市として栄えた様子や、ヨーロッパの列強各国による支配下にあった名残をすべて留める。これほど歴史を色濃く残した街並みは世界的にも珍しいとされ、2008年にはユネスコ世界文化遺産に登録された。世界遺産指定地域は駆け足で巡れば半日ほどで巡ることができることから、多くの人は日帰り旅行先としてこの地を訪れる。日本とマレーシアの古くからの繋がりを色濃く残す場所や、不思議な逸話を擁するスポットなど、語り切れないほどの魅力が存在するマラッカ。マレーシアの歴史に思いを馳せながら、その見どころを紹介しよう。


難を逃れて辿り着いた地、マラッカ


 スマトラ島東南部に位置するパレンバンに首都を擁し、7世紀ごろから辺り一帯で交易を行っていたシュリーヴィジャヤ王国(元大乗仏教国、現インドネシア・スマトラ島)は、14世紀末、ジャワ島東部のヒンドゥー教国家であるマジャパヒド王国の侵攻を受ける。当時皇太子だったパラメスワラ王子が家臣とともに逃れた先が、マレー半島西岸のこの港町。1396年、ここにマラッカ王国を建国する。名の由来は諸説あり、「隠れた逃亡者」を意味するという説もあるが、パラメスワラ王子が一休みしていた場所に立っていた木の名を国名としたという説が一般的だ(その港町の名を地元の民に尋ねたところ、木の名を尋ねられたと勘違いした民が”マラッカ”と答えたため)。

 パラメスワラ初代マラッカ国王は、家臣や地元の漁師らとともに、風待ち港として優れた性格を持つマラッカを港町として繁栄させるべく環境整備に取り組んだ。また他の港よりも税を低く抑えるなど優遇政策を導入したことなどが功を奏し、たくさんの交易船が寄港するようになる。またたくうちに力を蓄えていったマラッカ王国だが、パラメスワラ国王に再び脅威が迫る。北のアユタヤ王朝(現タイ)と南のマジャパヒド王国(現インドネシア)だ。その頃、中国では明国(みんこく)が誕生。明は海洋貿易を促進する上で、インド・中国間の航路を大幅に短縮させることが可能なマラッカの地理的優位性に着目する。一方のマラッカ王国は、明の後ろ盾を得ることで近隣諸国に脅威を与えることができるため、2国の利害関係は一致した。


 時は大航海時代。寄港地としてフェアな施策をとっていたマラッカは、各国の商人に好んで用いられ、84種の言語が交わされるほどの東南アジア最大の貿易港となる。また、明政府が貿易を国営化し私的貿易を禁じたこともあり、中国貿易商人の定住地ともなった。

壁に石で描かれた大航海時代の海図

イスラム教への改宗

国際結婚で更なる発展も、欧州の植民地へ


 アラブ諸国との貿易を有利に進めるため、パラメスワラ国王はイスラム教への改宗を決め、名をイスカンダル・シャーと改める。一方で、皇太子妃に明国の皇女を迎えるなどの外交手腕を発揮。変遷の著しい東南アジアにおいて、マラッカ王国は100年に渡り栄えることとなる。


 ところが1509年、ポルトガルが交易を求めてマラッカを来訪したことにより状況は一変。当時ポルトガルは、周辺諸国でムスリムを迫害し、貿易利益の独占化を図っていた。マラッカ王国は彼らの申し出を断固として拒否。これを受けポルトガルは艦隊を率いてマラッカを攻撃し、ついに王国は陥落する。その後、国王は王室を南下させ、ジョホール王国を建設。マラッカ奪還を幾度も試みるも叶うことはなかった(現ジョホール州のスルタン家は王国時代の末裔)。


 その頃、オランダもマラッカの有益性を重視し、マラッカ陥落を虎視眈々と狙っていた。1641年、ついにオランダが元マラッカ人の加勢を受けてポルトガルを排除。1786年には英国がペナン島を領有し(参照:古き良き時代とモダンが息づく島、ペナンへ行こう!)、1896年にはマレー半島全域が英国領土となる。


 マラッカ出身の観光通訳ガイドのシン・チャンさんはマラッカを「マレーシアに暮らす各民族のルーツの地であり、多民族・多文化の始まりの場所」と説く。「マラッカ王国の誕生は、マレーシア史上において、この国を特徴付ける最も重要な出来事。マラッカがなければ、我々の祖先はこの地に足を踏み入れることはなかったかもしれません」(シン・チャンさん)。


初代国王の理念が今も息づく街並み

 マラッカ市街地には、王国時代の様子や、中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなど各国の足跡が色濃く残る。ムスリム寺院であるカンポン・クリン・モスク、ヒンドゥー寺院のスリ・ポヤタ・ヴィナヤガール・ムーティ寺院、中国寺院のチェン・フーン・テン(青雲亭)寺院、カソリック教会であるセント・ピーター教会は、すべて各宗教寺院として”東南アジア最古”を誇る。その多くは、トコン通り(通称、ハーモニー通り:写真上)に軒を連ねるかのように並び、今も現役。積み荷を上げ下ろしするマラッカ川に沿った通りで、各宗教に帰依する船乗りらが航海の無事を祈るために利用した。

 各寺院の規模がほぼ同じであることも極めて印象的だ。他の国々では歴史上、新たな宗教の到来により従来の寺院は破壊されている。しかしこの地では、数百年も昔から多くの文化・宗教を背景とする多民族が、互いに尊重しながらともに暮らしてきた。マラッカ王国建設に際し、初代国王が人々との融和を重んじたことが今なお息づいているからだとされる。


 観光客に人気の市街地区は、トコン通りのほか、中心に位置するハン・ジェバ通り(ジョンカー通り)、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン通り)の3本の通りと、これらの通りを繋ぐ小路から成る。ハーモニー通り沿いには船乗りや銀細工職人らが暮らし、ジョンカーには商人、ヒーレン沿いには富裕層が暮らしていた(マレーシア華人協会初代党首宅やOCBC銀行創設者宅も、私邸として現存する)。住居のサイズや家の装飾は通りによって異なり、今もその特徴を留めている。

旧式のマレー住宅

琉球を訪問したマラッカ使節も


 マラッカ王国時代、すでに明と外交関係にあった琉球王国(現沖縄)の船がマラッカに20回寄港し、マラッカ使節が琉球を訪れたことも記録に残っている。当時琉球の人々は、マラッカで「レキオ」と呼ばれ、「正直な人間で、奴隷を買わず、たとえ全世界とひきかえでも自分たちの同胞を売るようなことはしない」と、『東方諸国記』(トメ・ピレス著)に記されている。また、ポルトガルによる統治時代には、布教活動中のフランシスコ・ザビエルがマラッカの地で出会った日本人青年の弥次郎(またはアンジロウ)の礼儀正しさに感銘を受け、「弥次郎の母国を見てみたい」と次なる布教の地として日本を選択。1549年8月、弥次郎とともに彼の出身地である薩摩を訪れ、島津藩当主の島津貴久の許可を経てキリスト教の普及を開始した。


 前述のガイド、シン・チャンさんは日本人を案内する時は、必ずセントポール教会とザビエル教会に行く、という。「セントポール教会はザビエルと弥次郎が出会った場所であり、マラッカ王国の王宮跡地です。ここから琉球人や弥次郎が見ていた風景を見ることができます。またザビエル教会にはザビエルと弥次郎の関係を示す像も残っています」。

セントポール教会からマラッカ海峡を臨む

 当地の人々に愛され、親しまれていた琉球人や弥次郎はこの場所で何を思い、何を見ていたのだろうか。 


興味深いエピソードの残るパワースポットの数々

 マラッカには、不思議な逸話やスポットが数多く存在する。


 その代表的な例は、観光名所であるセントポール教会跡の立つ丘。ザビエルの死去後インドのゴアに埋葬されるまでの9カ月間、遺体はここに安置されていたとされる。ゴアに眠るザビエルの遺体には右手がない(イエズス会本部に右手を送ったためという説が有力)。そして丘に設置されたザビエル像にも右手がない(写真右)。1953年、像の落札式に落雷が発生。近くに立つ高木に雷が落ち、その枝がザビエルの右手首から先を切断し、偶然にも遺体と同じ姿になったのだという。また先述のとおり、そもそもこの地はマラッカ王国の王宮跡地。初代国王がこの地に王宮を建設したのも、神秘の力を感じたためらしい。これらの言い伝えと聖人信仰が重なり、この丘はマレーシアでも屈指のパワースポットと言い伝えられているようだ。

 また、1850年に建立されたマリムの丘(市街地区から車で10分、AMJ通り沿い)に立つ『サンタクルーズ礼拝堂』。年に1度、4日間のみ開帳される礼拝堂の祭壇には「奇跡の十字架」が掲げられている(写真下)。


 ある日、ポルトガル人の末裔が多く暮らす市郊外のクブの町に住む娘が不治の病に陥った際、「マリムの丘で十字架が発見される」という夢を見る。家族が丘を探索したところ、そこには本当に十字架が埋まっていた。ともなく娘の病は完治。この噂が広まり、十字架のご利益を授かろうと、病気や怪我に苦しむ人々が集まったという。ところが、十字架を削ってお守り代わりにする人、食す人も現れた。そこで、十字架が発見された地に礼拝堂を建立し、十字架を安置。厳重な警備が施され今に至る。年に1度のミサには敬虔なクリスチャンが世界各国から訪れ、大型バスが列を成すなど、普段静かな丘はその様相を大きく変えるが、礼拝堂の中は傷ついた十字架に真摯に祈りを捧げる人々の想いで、厳かな空気が流れている。

 アロー・ガジャエリア(ネグリセンビランとの州境)に点在する巨石群(写真右)に関しては、昔の人々の墓地、古代の古墳、天文に用いられた古代遺跡など諸説あるが、未だに定かではない。1981年に周辺地区の巨石群を掘り起こした際に人骨は見つからなかったことから、墓地説は薄れてきている。なお、当遺跡は地元の人々にもその存在はほとんど知られていない。


 マラッカ王国時代の勇者“ハン・トゥア”とその仲間たちの活躍は、マレーシアで語り継がれる伝説だ。実際のところ、12ヵ国語を操り、剣豪であったハン・トゥアは海軍提督の地位まで昇り詰め、交易にも深く関わり極東地区を担当。琉球も訪れたと伝えられる。国王の信頼も厚かったことから貴族らの反感を買い、晩年は不遇のときを過ごした。暗殺未遂にも遭い、彼が暗殺されたと誤解した親友ハン・ジェバは暗殺令を出した貴族を殺害。犯罪人となった彼を討つよう国王よりハン・トゥア自身が命を受け、その命を果たさざるを得なかった出来事は、王国時代の悲劇として涙を誘う。


 ハン・トゥア、ハン・ジェバらが出身村のために掘ったとされる『ハン・トゥアの井戸』は干ばつのときにも枯れることがなく、ハン・トゥアの魂が宿る奇跡の井戸として地元の人々に大切に守られている(写真下)。井戸の水を車に浴びせていたタクシー運転手の男性に話を聞いたところ、ジョホールバルから毎月一度必ずこの井戸を訪れているという。「おかげで30年間無事故」だそうだ。なお、ハン・トゥアは市街地から離れた村に、ハン・ジェバらはジョンカー通り付近の賑やかな地に眠っている。

ハントアの井戸。白いワニの姿でハントアの魂が現れるという言い伝えも

マラッカの良心と古き良き伝統に触れる

良心的な銀細工の店。古いたたずまいだが良い品が並ぶ

 マラッカ一番の繁華街であるジョンカー通り。とりわけ毎週金曜日から日曜日に開催されるナイトマーケットは、食べ物、土産物、日用品を売る屋台がギッシリ並び、行き交う人々でひしめき合う。この地区に立つ各店、屋台は「ぼったくらない」ことで知られる。裏通りに立地する小さな銀細工の宝飾品店では高品質の銀や宝石類を扱うが、淡水真珠をあしらった繊細なデザインのピアスは50リンギ(RM)前後。ほかの品もすべて安価で目を疑う。なぜこれほど安いのかと店主に尋ねたところ、「商品に見合った値段を設定しているだけだよ。市場価格が間違っているんだ」と笑う。「フェアな貿易港」として諸国の人々を惹きつけたマラッカ王国の精神は、今も当地に息づいているようだ。


 中医(漢方医)の営むブンガラヤ通り沿いの「福安堂」は、KLや他の地域の漢方薬局とは一風異なる。店内に入ると、年季の入った黒光りする薬箪笥に収まった生薬やアンティークな分銅に目を奪われる。2人の薬剤師が、前を向いたまま背後にある薬箪笥に手やひっかけ棒を伸ばして、中医の処方箋に沿った目当ての薬を次々と取り出し、分銅で正確に測りながら素早く的確に調合する様子はまさに神業。診察代、薬代はもちろんリーズナブルで、いつ訪れても中華系、マレー系、インド系の人々が各自の順番を静かに待っている。タイムスリップしたかのような当店でもまた、マラッカならではの古くからの伝統と良心に触れることができる。


国際色に富んだ「ポルトガル人居住区」のシーフードレストラン


 オランダによる植民地支配が始まったことで市街地を逃れたポルトガル人。彼らの末裔が暮らす「ポルトガル人居住区」と呼ばれる地区が存在する。住民のほとんどがカソリック教徒で、クリスマスには各住居がキリスト誕生の様子を表現する厳かな飾り付けやフレスコ画を施し、町全体がカソリック色に包まれる。


ポルトガル人居住区のレストラン街

 この地区はシーフードレストランを10軒擁し、全軒が干潟に向かって一列に並んでいる。中には中華系の店主が営むレストランもあるのだが、ポルトガル系の店では新鮮な魚介に加え、ポルトガル料理がマレーシア風に変化した独特の料理である「デビルカレー」(写真左)や「ナスの胡椒焼き」が味わえる。なお、デビルカレーとは3種類の大量の生姜とトマトを多用した料理で、唐辛子系とは別の辛さのやみつきになる味わいが特徴だ。マラッカを訪れた際には、その名に気圧されず試していただきたい。余談だが、レストラン前の干潟には引き潮時、大量のトビハゼが可愛らしい姿を現す。生き物好きな方はぜひこちらもお楽しみに。

引き潮時の干潟に現れるトビハゼ

 ペナン同様、ババ・ニョニャ文化で知られるマラッカでもニョニャ料理が有名だ。ペナンのニョニャ料理が繊細かつ中国色がやや強いのに対して、マラッカのニョニャ料理にはマレー系やポルトガルの要素が加わったメニューが並び、辛さも手強い。食べ比べて違いを認識するのも面白いだろう。


 マレーシア名物のチキンライスも、マラッカの品は少し異なる。チキンライスが団子状なのだ。ほかの地域のチキンライスがパラパラとしているのに対し、団子状の品は粘り気が強い。なお、超有名店では早朝から行列が形成され、昼には売り切れてしまうそうだ。


 日本が室町時代の時、マラッカ王国は小国ながらもすでに諸外国の人々を迎え入れる国際都市、ダイバーシティ先進国だった。多文化を尊重し、良いところは取り入れ、合わない部分とは距離を置く。600年以上に渡り多種多様性を受け入れてきたこの国の歴史から日本が学ぶことは多い。


 そのマラッカも、他の観光都市の例にもれずコロナ禍にあえいでいる。欧米や日本からの観光客に人気のプラナカン邸宅ホテル「ヒーレン・ハウス」(写真上)のオーナーは、「11月に発令された移動制限令で、マラッカ経済は壊滅的な打撃を受けた。客足が戻りつつあるものの、土産物屋に立ち寄る人は見かけず、今の街を見るのは寂しい」と嘆き、同ホテルをチャイニーズニューイヤーまで閉鎖すると決めた。「皆で手を取り合い、今を生き抜き、2021年を希望の年にしたい」との決意を新たに、1日も早くマラッカのあの輝きを再び目にしたいと語る。


<著者プロフィール>渡部明子(ライター、翻訳、医療通訳者。金融機関秘書および人事部、大学研究部門事務、米国小学校インターン教師を経験。立命館大学法学部卒。3人の子どもを日本、アメリカ、マレーシアで育てる)

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