マレーシアファッション界のキング、バーナード・チャンドラン氏が語る成功の秘訣とは

世界各国のロイヤルファミリーや著名アーティストらをクライアントに擁し、マレーシアファッション界の”キング”と称されるバーナード・チャンドラン氏。その作品は、子細に計算された上品で洗練されたデザインから、エンターテイメントな舞台を彩る華やかでポップなドレスまで多岐に渡り、英国王室や米人気歌手のレディ・ガガらをも魅了する。頂点を極めながらも、ヨーロッパのコレクションに毎年出品、チャレンジし続ける“キング”の素顔を紹介しよう。

お洒落な母とその友人に囲まれた幼少時代


 1968年、インド系ヒンドゥー教徒の父と中華系仏教徒の母との間に、5人兄弟姉妹の第2子として生まれた。決して楽ではなかった家計を助けるべく、13歳の時に煙草を売ろうと思いつく。「毎日タバコを吸う顧客を得られれば、日々確実な収入が手に入る」と見込み、客の好みや嗜好の傾向を覚えて商品をそろえて、売り込んだ。この行商スタイルが功を奏し、“商売”は繁盛。「でもあの頃は、儲かることよりも”ありがとう”と声をかけられることが何よりも嬉しかった」と、当時を振り返る。

 ファッションに目覚めたのはいつ頃と聞かれると、いつも頭に浮かぶ光景がある。それは「常に色鮮やかで綺麗な服を着て、カメラに向かってポーズをとる母の姿」。家の周辺はジャングルだったにも関わらず、カラフルな衣服をまとい動き回る母を目で追っていたことを鮮明に覚えているという。


 思い返せば、母の友人らも皆ファッションセンスに富んでいた。ある日家に訪れた母の友人は、見たこともない服や靴を着ていた。当時の服装のイメージからは検討もつかない型破りなファッションで、そのボーイッシュなカッコ良さに衝撃を受けたという。それらは当時外国で流行していたベルボトムのパンツと、厚底ヒールのブーツだったわけだが、その頃のチャンドラン氏が知る由もない。


 さらに、ヨーロッパの各ファッション・ウィークのテレビ放映が始まった1986年。自宅で番組を見ていたチャンドラン氏は、目に飛び込んできた華やかな衣装をまとったモデルが次々と歩いてくるショーの様子を映す画面に吸い寄せられた。ファッションにすっかり陶酔し、その頃からファッション業界に身を置くことを夢見るようになる。


父が勧めた会計士の道からの転換


 だが、チャンドラン氏の父は、収入の確かな会計士の道へ進ませるべく、一切の手はずを整えてしまう。長男としての責任感から会計学校に通い始めるも、勉強にまったく身が入らない。いったんは蓋をした「デザイナーになりたい」という夢。父に毎晩必死に自らの夢を語ったところ、熱心な彼の願いに根負けした父は、洋裁学校の3ヵ月分の学費を出してくれた。


 早々に会計学校を後にし、学校が始まるまでの数ヵ月、学費の足しにとチャンドラン氏は、アクセサリーの製作販売や様々なことに挑戦。実入りの良いモデル業もその一つだった。


 ある大きなモデルオーディションの審査会場で彼は、1人の女性と出逢う。後に妻となるメアリー・ローデスさんだ。抜きん出た輝きと魅力を放っていたインド系の風貌を持つメアリーさんは、そのオーディションに優勝し、程なくスーパーモデルの道を歩み始める。大富豪や著名人など、並み居る男性陣からプロポーズを受けるも歯牙にかけず、「パリで成功し一流のデザイナーになり、世界のロイヤルファミリーに服を提供する」というチャンドラン氏の夢に共感し、彼とともに歩く人生を選ぶ。


畑違いの学校を巻き込んだ斬新な企画力

人生初のショーは大盛況に


 1988年、洋裁学校へ入学後間もなく、以前通っていた会計学校の校長から、「うちの学校の卒業パーティーでファッションショーを開いてみないか?」と声をかけられる。会計士の道からデザイナーの道へ転身した氏を面白がってのことだった。それまで自己流での服の制作経験はあったが、入学したての彼には本格的な技術はなく、予算もない。だが、「デザイン学校に通う生徒としてランウェイは夢。他の学生にとっても千載一遇のチャンスに違いない」と一念発起した。自身の出場だけにとどまらず、デザイン学校全体を巻き込んでショーを実現させる方針を打ち立て、事務局には素材の提供を、講師にはアドバイスを嘆願。上級生たちにはパターン・メーキングや縫製を依頼した。「デザイン学校の生徒の多くは、内職技術を養うために学ぶ家庭の主婦でした。ランウェイ用のドレス作りを手伝ってほしいと頭を下げると、彼女たちは目を輝かせて協力してくれました」(チャンドラン氏)。


 ショーまでの数週間、校内は祭りのような盛り上がりを見せた。モデルはメアリーさんとその友人らに協力を依頼し、彼自身はドレスデザインに加え、ステージ構成、音楽などその他一切を担った。渾身の力を込めた人生初のファッションショーは大成功。洋裁学校も評判を得ることとなる。すると、学校から思わぬ申し出が。「ショーの開催は、学校史上最も大きな成果をもたらした。今後の学費は免除とします」。期せずして、4ヵ月以後の学費は不要となった。また、同氏の才能を見込んだ事務局は氏のかねてからの夢、パリのデザイン学校探しも約束する。


妻の支えに報うべく、成功を誓ったパリ時代

シルクカット・ヤング・デザイン・コンテストでアジア系として初の受賞


 デザイン勉強の留学先として英語の通じるロンドンを選ぶ人は多い。パリ行きはあらゆる意味で大きなチャレンジだったが、メアリーさんという伴侶を得たチャンドラン氏はデザインに加えてフランス語も猛勉強。1989年、2人は夢への第一歩を印すべく、パリへと旅立つ。

スーパーモデル時代のメアリーさんが掲載された雑誌

 チャンドラン氏はパリ・アメリカン・アカデミーに入学、メアリーさんは夫が学業に専念できるよう、モデル業で生計を立てた。彼女のエキゾチックな魅力はパリでも人気を博すものの、質素な生活を貫いた。


 ある日、メアリーさんがためらいながらチャンドラン氏に話しかけてきた。どうしたのかと思えば、欲しいものがあるのだという。「100フラン(1,800円程度)の服でした。生活費を稼いでくれていたのは彼女でしたが、切り詰めて生活していたので言い出しにくかったのでしょう」。その情景を回顧したチャンドラン氏が、感極まって泣き出した。その嗚咽は次第に大きくなる。ひとしきり泣いた後、絞り出すように言った。「あの時、一分一秒でも早く成功して、絶対に妻を幸せにすると固く心に誓ったのです」。


 寸暇を惜しみ、勉強に励んだチャンドラン氏は、ともなく学費免除を勝ち取った。3年目には、学生でありながらパターン・メーキングの講師に抜擢される。1991年には、恩師の勧めで若手デザイナーの登竜門とされるシルクカット・ヤング・デザイン・コンテストに出場。それは、かつて欧州人以外が入賞したことのないコンテストだったが、女性のための快適な服作りに徹した結果、見事栄冠を獲得。「ココ・シャネルが初めて女性用パンツスーツをデザインしたように、既存の概念にとらわれることのない発想を心掛けた」、という。続く”ルック・オブ・ザ・イヤー2000 オープン・ヨーロピアンコンテスト”でも1位を獲得。ファッション大国フランスで、“アジア出身の若き天才デザイナー、バーナード・チャンドラン”として、その名は一気に知れ渡ることになる。

最愛の妻、メアリーさんと

ブランドの立ち上げはマレーシアで


 コンテストの優勝経験と優秀な成績での学位取得により、チャンドラン夫妻のパリでの将来は約束された。誰もが彼らはパリに残るものと期待し、夫妻も当初はフランス永住を検討していたが、マレーシアへの帰国を決める。母国の”豊かさ”が何より恋しかったのだ。


 「それは、緑であり、街にあふれる色の豊かさであり、文化、そして多種多民族を受け容れる心。マレーシアはなんと美しく、豊かな国だったのだろう」と祖国への万感の思いが込み上げてきたという。このままフランスに残った方が将来は安泰かもしれない、との思いも時折頭をかすめたが、「ファッションに理解のない国に戻って何ができる?」と言った周囲の言葉が、彼に火をつけた。「だったら僕が、マレーシアの人々をより輝かせてみせる」。


 マレーシアへの帰国は、彼にとって勇気のいることだった。市場開拓を含めてゼロからのスタートであることはもちろん、結婚した際に親戚縁者から、「逆玉の輿」と散々揶揄された記憶がよぎる。だが、意を決し、チャンドラン氏はクアラルンプールの中心街ブキビンタンに小さな城を構えた。自身の名前、“バーナード・チャンドラン”で勝負に出る。

KLの一等地に居を構える
美しいフォルムとレース使いに息をのむドレスはバーナード・チャンドランの真骨頂

 現在マレーシアでは、ハリラヤ前にはラヤ・コレクション、チャイニーズニューイヤー前にはチョンサム・コレクションなど、各伝統行事に先駆け、各デザイナーが毎年新たな伝統衣装デザインを発表するのが恒例となっている。この当地ならではの「ファッション・イベント」を創り上げたのは、他ならぬチャンドラン氏だ。各民族衣装や伝統衣装をより心地よく着こなし、自分のルーツ以外の伝統衣装にも袖を通したくなるような作品を紹介するイベントを企画しようと思い立ったことが発端である。

千を超える金箔の蝶が縫い付けられた中国ドレス

カメレオン・デザイナーと呼ばれて


 彼の作品はいずれも、息を呑むほど丁寧で美しいディーテールと上品さを特徴とする一方、ジャンルが多岐に渡りそれぞれ異なる雰囲気を有する。そのため、時に「これも氏の作品?」と、驚きをもって迎えられることが多い。作りたい作品だけを創作するタイプのデザイナーに対し、氏はどんな依頼や要望にも応える “カメレオン・デザイナー”と、いつしか呼ばれるようになっていった。

多文化を象徴する作品の数々。干支の刺繍が施されたインディアンドレスも

 豊富な経験と生まれ育った環境に所以がある。「我が家は主に、2つの伝統文化に則した暮らしを送っていました。父方のヒンドゥー文化と母方の中国文化です。それらの文化は“混在する”というよりはむしろ、”昨日まではヒンドゥー色に彩られていた家が、今日から中華系一色に変化する”という変幻自在なユニークな環境」だったという。この境遇が、あらゆるクライアントの嗜好や要望に対応し得る素地を醸成し、人に敬意を払うことの意味や意義を教えてくれることになった。


たくさんの人々が開けてくれたドア


 「”今”に全力投球していたら、たくさんの人が導いてくれた」とこれまでを振り返る。思い出深いのは、クランタン州の博物館主催のショーの準備に追われていた時のことだ。噂を聞きつけたロンドンのデザイナーが、「世界4大コレクションのランウェイを飾るお前が、片田舎でファッションショー?他にやるべきことがあるのでは?」と言ってきたが、耳を傾けず、全身全霊をかけてショーに臨んだ。


 ショーは大成功、加えて予期せぬ収穫があった。招待されていたタイ王室のロイヤルファミリーがランウェイに感銘を受け、タイ宮殿で翌年7日間に渡る壮大な“バーナード・チャンドランショー”の開催を打診してきたのだ。これがタイでの市場開拓、ひいては多くのロイヤルカスタマーの獲得に繋がるきっかけとなる。

英王室のキャサリン妃に作品を説明するチャンドラン氏

 氏のこれまでの道のりに、上述のような例は枚挙にいとまがない。普段交わす何気ないやりとりすらも後に大きな結果をもたらし、1段、また1段と人生の階段を昇ってきた様子が伺える。肩書や美辞麗句に惑わされず、正しいと信じる道を全力投球で進むのみーーメアリーさんがチャンドラン氏を信じたように。




「好きになる力」がダイバーシティを育む


 「相手を好きになると、先方もこちらを好きになってくれる。相思相愛の力は大きく、結果は何倍にも大きく膨らむ。この心の化学反応が”ダイバーシティ”なのではないか」と、チャンドラン氏は言う。

試着室のカーテンに施されている刺繍

 実際、彼の工房は世界各国から60名に及ぶ職人が集まる多国籍企業だ。20年以上に渡りともに歩むスタッフも多く、作品の世界観をイメージ通りに表現するには彼らの力が欠かせない。職場のみにとどまらず、国内外をフィールドに戦う氏にとって「人を好きになる力」は、成功のための最も重要なスキルだと説く。


 1993年に1区画からスタートした店舗は、今ではこの国の一等地に4区画を占める。さらに2020年1月にはメンズウェア専門店もオープン。夫妻はダトゥ、ダティン(貴族に相当する称号。州スルタンが授与する)の称号も授かった。「真面目に働く、人を大切にする、女性を泣かせない」を生きる指針に、チャンドラン氏は歩き続ける。経験でしか培われないプロの技術をさらに向上、維持させるためには、日々努力を重ねるしかないためだ。

垂涎の作品群

 大勢の職人が手作業で仕上げる氏のブランド品はいずれも高価で、手に取ることができる人は限られている。しかし、人の笑顔に支えられて生きていた少年時代同様、「僕の作品を見て喜び、夢を感じてもらえるなら、それで十分。特にデザインを勉強している人なら、どんどん見に来てほしい」、と屈託のない笑顔で語る。


 人は、日頃生活を営む上で、目に見えない多くのドアに幾度となく直面し、どのドアに手をかけるかによって、その先の風景が変わるのかもしれない。チャンドラン氏は、正しいドアを選んだ。そして、そのドアは、”誠心誠意”という鍵によって開くのだろう。


 「人生は短い。明日何が起こるかもわからない。後悔しないよう、精一杯人々の笑顔のために生きていきたい」。人をリスペクトする天才は、そう言ってインタビューを後にした。

毎年欠かさず出場してきたパリ・ファッションウィークでの出品作品
チャンドラン氏のドレスをまとうレディー・ガガさん

*フェアレンハイト88(ブキビンタン、クアラルンプール)では、「バーナード・チャンドラン展」を開催中。入場料は無料。コレクション出品作品から著名スターに提供したドレスのレプリカ、アトリエを模したスペース、デザイナーになることを夢見ていた頃の自宅の様子などが展示されており、バーナード・チャンドランの世界を余すことなく堪能することができる。なお、ブランド店舗“バーナード・チャンドラン”、メンズ専門店“フイギュア”のいずれも、同館に入店する。


ブランド詳細:https://bernardchandran.com/

店舗情報:

Bernard Chandran, Level 2

Figure, Level 1

2-41, Fahrenheit 88

179 Jalan Bukit Bintang

55100 Kuala Lumpur, Malaysia

電話:+ 603 9213 1601


<著者プロフィール>渡部明子(ライター、翻訳、医療通訳者。金融機関秘書および人事部、大学研究部門事務、米国小学校インターン教師を経験。立命館大学法学部卒。3人の子どもを日本、アメリカ、マレーシアで育てる)

© スダマカンマレーシア情報. For Your Media, Corp. All rights reserved.