ファッション・デザイナー メリンダ・ルイ 『天賦の才は、勤勉と努力で花開く 幼少期の苦労が、天才的センスと技術の礎に』

Updated: Feb 1


 レースや皮革、刺繍、世界各地の伝統生地など、縫製技術が困難を極める異素材を難なく組み合わせ、「アバンギャルド」と形容される作品スタイルで世界にその名を知られるマレーシア人ファッション・デザイナー、メリンダ・ルイ。


 学生時代から類まれな才能で注目を集め、多数のファッション・アワードを国内外で受賞。現在はマレーシア・デザイナー協会(MODA)の会長を務めるなど、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍で常に内外の注目と尊敬を集めている。


 ファッションを通して社会に大きく貢献し、変革をもたらし続けるマレーシアのアイコニック的デザイナーである彼女のこれまでの活躍、および成功秘話を紹介しよう。


業界の第一線を駆け抜けるフロントランナー


  マレーシアはもちろん、ヨーロッパ、中東、シンガポールほかアジア各国で、クチュール(仕立て服)、プレタポルテ(既製服)ショップを展開。カジュアル・ウェアやインテリアデザイン、3Dプリントデザインも手掛けるなど、矢継ぎ早に新たなことに挑戦し、それらを成功に導く多才ぶりはつとに有名だ。


 サンフランシスコ、フランクフルトに続き、2020年2月から開催中のニューヨークのクーパー・ヒューイット・スミスソニアン・デザイン・ミュージアム(旧国立デザイン博物館)でリレ-開催中の「現代モデストファッション国際展示会」では、メリンダの作品がメイン展示物として紹介されている。発案者自らメリンダの出展の説得にマレーシアを訪れたという逸話も残るなど、メリンダは本展示会の立役者でもある。


 また、コーポレート・アイデンティティーと働くモチベーションを高めるデザイナーズ・ユニフォームコンセプトを当地に導入し、メイバンクやパナソニックを始めとする多数の企業の制服、および全国展開するカフェの食器類、ひいてはミラノ国際博覧会におけるマレーシアパビリオンのスタッフユニフォーム、マレーシア公式スポーツユニフォームデザインなど、世界の場で国のアイデンティティーを示す国際的プロジェクトを一手に担ってきたのも、ほかならぬメリンダだ。

医療用ガウンの制作方法を指揮する

 2018年にMODAの会長に就任した際には、「もっとも正しい人物がその座に就いた」と、モデルやメイクアップアーティストら、ファッション業界を支える人々からも拍手をもって迎えられた。今年、新型コロナウイルスによる医療用防護服(PPE)の不足が叫ばれると、自ら素早く製作に取り掛かるとともに、他のデザイナー、縫製業界をもとりまとめ、国内需要を一気に満たすべくリーダーシップを発揮したことも記憶に新しい。


 最も成功し、影響力を持つマレーシア人デザイナーの1人として誰もがその名を挙げるメリンダ・ルイ。だがその成功は、彼女の過酷な幼少時代の経験なしにはあり得ないのだった。



家業の手伝いに明け暮れた幼少期


 1973年、メリンダは、マレーシアで唯一のプリーツ加工工場を営む父と、腕の良さで知られる裁縫士の母との間に生まれる。


 当時、他の従業員を雇用する余裕のなかった両親は朝早くから夜遅くまで工場で働いていたが、人手が足りず、子らにも手伝いを強いた。放課後すぐに工場に駆け付けて縫製を手伝い、週末も朝から晩まで工場勤務。時折祖母が仕事場に顔を出して子どもたちを公園に連れ出してくれることが唯一の憩いの時間で、友達と遊んだ記憶は一切ないという。「とりわけ学校の長期休暇は苦痛でした。クラスメートらは旅行や家族イベントの計画を楽しそうに話していましたが、私は、休みが近づくにつれ憂鬱度が高まり、担任の先生に、休暇中の特別プログラムを作って私を学校に呼んでくれないかと頼んでいたほどです。家の手伝いをしなければならないからという理由は子ども心に恥ずかしくて言えず・・・。先生からは休暇を楽しみなさいと、毎年一蹴されていました」(メリンダ)。両親に「こんな生活は嫌だ」と訴えたこともあったが、聞き入れられることはなかった。

芸術家になる夢を絶たれ、ファッションデザインの道へ


 当時のメリンダの遊び道具は工場内にいくらでもある端切れだけ。空き時間にそれらを縫い合わせて自分なりのおもちゃを作るなど、クリエイティブな遊びに喜びを感じていたという。将来の方向性について両親と話し合う機会を迎えたとき、意を決して、秘かに抱いていた芸術家になる夢を伝える。「芸術学校へ通わせてください」と頼み込んだが、「芸術では食べてはいけない」と、一刀両断された。だがメリンダは食い下がらず、芸術的な勉強ができるほかの道を思案し、「ファッションデザインの学校に行きたい」と再び訴えると、この案はすんなり聞き入れられた。後になって分かったことだが、両親はメリンダに家業を継いでもらうことを想定し、「デザインの勉強は将来の工場運営に役立つ」と考えたのだった。


圧倒的な経験値で他の追随を許さず


 メリンダは晴れて「ファッションデザインの父」と称されるジャン・ポール・モーリン氏がモントリオール(カナダ・ケベック州出身)に創設したラサール・ファッション専門学校のKLキャンパス(現:ラサール芸術専門学校)へ入学。直ちに群を抜いた才能を発揮し始める。一流の職人である両親のもと、あらゆる素材の特質、柄と柄の理想的な合わせ方、異素材生地の組み合わせの可能性、異素材を重ねた縫製方法など、机上の学問では習得が困難な知識や技術を幼い頃から学び、すでに身に着けていたからだ。

 メリンダは当時をこう振り返る。「生地を見れば材質が分かり、触れれば値段もわかりました。素材の活かし方、縫製後の着心地も容易に想像できるため、テーマと予算が示されれば、その中でベストなデザインとマテリアルを提案できます。見た目に華やかなデザインを重視するばかりではなく、着る人の立場に立ち、肌にやさしい生地を選び、肌を傷めない縫製を心がけるなど、すべてを感覚的にこなすことができたんです。初めて、”自分はなんてラッキーなのだ”と、親やこれまでの環境を感謝しました」。

1995年、コンテストで初優勝したメリンダ(中央)

 学校を卒業する年の1995年、政府公認団体であるMODAが設立され、ファッションデザインコンテストが開催される運びとなった。卒業制作作品を引っ提げ出場したメリンダは他の追随を許さず圧勝し、賞品として海外で3年間学ぶための奨学金を獲得する。偶然にもそれまで師事していた専門学校の講師が、モントリオールのラサール本校へ帰任することになり、メリンダはラサール本校への留学を決意。両親も「奨学金がある限り、勉強を続けても良い」と送り出してくれた。卒業、MODA設立、コンテスト優勝、そして師が本校へ戻るなど、メリンダにとって幾重にも幸運が重なったこの年は、その後のデザイナー人生を決める大きなターニングポイントとなった。


留学中、クチュールの頂点を極めるウエディングドレスコンテストで優勝


 フランス文化圏であるモントリオールで学んだ意義は非常に大きかったとメリンダは振り返る。「ヨーロッパの文化と米国の文化が混じり合う、非常に刺激的な環境でした。まさに温故知新、ポップと伝統。アジアに留まっていたら得られなかった多くのものを吸収することができました」。メリンダの実力はモントリオールでも注目を集め、就学期間にも関わらず、ウエディングドレスコンテストを始めとする複数のコンペティションで優勝。元来の勤勉さも手伝い、本来は3年間で終えるコースをトップの成績で、2年で修了する。


 「卒業だと先生から聞かされたとき、しまった!あんなにもまじめに勉強するんじゃなかった!と後悔しました。学校が終わったら直ちにマレーシアに戻ると両親と約束していましたから。まだ勉強したい科目があることや、あと1年奨学金の権利があるのだから、なんとか学校に置いてほしいと先生に必死に頼みましたが、学校が教えることはもうないと言われてしまって」。


 1998年、工場を託す自慢の娘の帰国を心待ちにする両親のもとへ、メリンダは大きな覚悟を決めて帰ってくる。


「工場は継ぎません。ファッション・デザイナーとして生きていきます」


 メリンダは帰国するなり、切実な想いでこう決意を口にした。青天の霹靂(へきれき)とばかりに絶句する両親を前に、自分は決して間違っていないという自負がありながらも、期待を裏切ることへの罪悪感の大きさから、何度も「ごめんなさい」と頭を下げたという。しかし、両親からは許しを得られず、勘当を言い渡されることに。


 当座の生活費とミシンを買う資金をこっそり手渡してくれた祖母に泣きながら何度も感謝を伝え、メリンダは家を出た。一日も早く両親に認めてもらえるデザイナーになるのだと歯を食いしばり、ファッションメーカーで一心不乱に働きながら、寝る間を惜しんでデザインの勉強を独自に続けていく。


2000年、オリジナルブランド創設


 そして2000年。ついに香港で開催されるアジアファッションコンテストへのマレーシア代表としての出場権を勝ち取る。この朗報を誰よりも喜んでくれたのは、祖母と、そして両親だった。遠方にも関わらず、マレーシアからは関係者のほか、専門学校時代の恩師、学友、家族ら40名余りが応援団として会場に駆けつけた。


 ショーが終了し、いよいよ結果発表。「優勝は、〇△×!」。その瞬間、「マレーシア・ボレー!!!」と家族や友人らが一斉に立ち上がり、メリンダを抱きしめた。肝心のメリンダには何が起きたのかさっぱり飲み込めない。優勝者の名前が彼女には耳なれない広東語で発表されたからだ。

 最愛の家族や友人、恩師らが興奮して喜ぶ姿を目にし、自分が受賞したのだとようやく理解できた。同時に幼い頃から今日までのすべての出来事や人々の顔が走馬灯のように脳裏に蘇ったという。「辛く、途方に暮れる程がむしゃらに働き、学んできた日々の背景には、こんなにも多くの人々の愛情と支えがあったのだと心の底から実感でき、涙が止まりませんでした。これまでのデザイナー人生で最も幸せな瞬間であり、あの日の光景は今もなお私のパワーの源です」。


 自らの足で立つための十二分の自信を得たメリンダは、オリジナルブランドの創設へと舵を切ることになる。


ファッションはマリアージュ、そして安全圏からの脱出


 ファッション誌や専門家はメリンダの作品を「想像を大きく良い方向に覆し、歓喜させる力を持つ。世界各地の伝統や文化をも織り交ぜ、上品さと可愛らしさ、顔をほころばせるユニークなアイディアをも忍ばせる引き出しの多さに、素人のみならず、専門家でさえ毎回驚かされる」と表現する。インドネシアのバティック、タイのシルク、日本のアンティークの着物生地、中国の刺繍、ヨーロッパのレースなど、ありとあらゆる素材を難なく自由に使いこなし組み合わせる手法は実に独特だ。常に斬新で新しいコレクションを発表し得るのはなぜなのか、どこからその発想が湧き出るのか、若手デザイナーを始めとする人々の関心は、その一点に集中する。

 「ファッションは、“マリアージュ”、“ユニティ”そのもの。この世界が様々な民族や伝統、文化によって成り立っていることを思えば、ファッションにあらゆる要素を盛り込むことは自然な流れ」だとメリンダは言う。さらにこう続ける。「みなさん知識も豊富で、技術も充分にあります。また、プロフェッショナルとしての職に対する自信がないわけでもありません。意識、無意識に関わらず、安全圏内にいるのが心地良いのでのでしょう。けれど、挑戦なくして成功はない。その挑戦とは、安全圏から脱出すべく一歩を踏み出すことなのだと思います」。


ファッションは希望の源泉であれ


 メリンダは、ヘレナ・ルビンスタイン(世界初の化粧品ブランドを確立した美容家)の格言である「美しくない人はいない。ただ怠惰なだけだ」を引用し、「メンタリティは人の輝きに大きく影響を与えます。そして化粧やヘアスタイルを含むファッションにより、精神性は強くなると確信しています。だからこそ、ファッションは”希望の源泉”でなければなりません」と力強く語る。だが、過剰な装飾や演出を促しているわけではないことも付け加える。


 一方で、目新しさやデザイン重視に走ったファッションであってはならないと警鐘を鳴らす。「着心地の悪さにすぐに着替えたくなるような服」は彼女にとって御法度なのだ。また当地では、生地や素材が肌に与える影響への認識が進まないことにも言及。「オーガニックコットンなど、肌に良い素材を着用する重要性の周知に取り組むのも、我々の役目だと考えています」。


 メリンダ・ブランドには、セレブリティ向けの高級服だけではなく、リーズナブルな既製服やカジュアル・ウェアも多数ラインナップするが、いずれも着心地の良さはファンのお墨付きだ。

 コロナ禍において、当地でいち早く、繰り返し使える布製のマスクの製作・販売に取り組んだ。そのマスクは、ユーロフィン(食品、製品、医療薬品等を分析・検査するグローバル企業)がその品質を「マスク専門業者が生産するサージカルマスク以上」と保証する。消費者の立場に常に思いを馳せる彼女の姿勢が、ここにも如実に表れている。



勤勉さと柔軟性、努力の上に、才能は開花する

 メリンダの作品には、隅々に至るまで彼女自身による手作業が行き渡り、アートワークが光る。アクリルペイントをパレットに広げ、画像化して生地にプリントするなど、最新のテクノロジーを用いることもあれば、伝統刺繍やレースも採り入れる。


 創作活動を支えるものは、「学びの姿勢、挑戦、そして勤勉さ」だと言う。「別の分野からデザイナーの道へ転身して成功する人を、あの人は才能やセンスがあったから、と簡単に片づけるのは間違い。成功の裏には、並外れた努力が必ず隠れているはず」と熱く語る。


「挑戦はタフです。コンテストでは、勝つこともあれば負けることもある。審査員も人間ですから、良いと信じることが理解されない場合は縁がなかった、相性が悪かったと吹っ切り、次へと切り替えていくことが”挑戦”です。これなくして先には進めません」。


 またデザイナーは、クチュール(仕立て)にも挑まなければならず、ここでの必須能力は「柔軟性」だという。「ファッション・デザイナーは、プロフェッショナルなアーティストだから、宗教や生活スタイルに加え、嗜好といった主観性をキャッチし、応えなければならない」と語る。


 インタビューの最中、メリンダは「私はラッキー」と幾度となく口にした。そのいくつもの「ラッキー(幸運)」の意味を紐解いていくと、その源泉は、彼女の勤勉さであると感じた。人との縁、タイミングの良さ、結果が導かれるのは、努力を怠らない彼女の姿勢と頑張りがあってこそなのだ。その能力を育んだのはほかならぬ両親であり、子どもの頃の環境だ。だからメリンダは「素晴らしい両親のもとに生まれて、私は本当にラッキー」と笑う。


 これまでの人生に後悔はないものの、4人の子どもの子育てが一段落したら、やはり絵画や彫刻を本格的に学びたいという。「人生は常に勉強。いくつになっても勉強できることこそ、人間としての醍醐味なのかもしれません」。


 メリンダの一言一句は、ファッション分野に留まらず、あらゆる分野や人生そのものにも当てはまり、深く大きな示唆に富む。過去の厳しい境遇を嘆くことなく、すべてを糧に変えて「私はラッキー」と感謝し、成功を手に入れてきた彼女の明るくポジティブな生きざまは、コロナ禍の現代を生きる上で、私たちの大きな道しるべとなるのではないだろうか。


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<著者プロフィール>渡部明子(ライター、翻訳、医療通訳者。金融機関秘書および人事部、大学研究部門事務、米国小学校インターン教師を経験。立命館大学法学部卒。3人の子どもを日本、アメリカ、マレーシアで育てる)